写生歌
「仁和寺の石畳打つにわか雨 小さき弧を描きしぶきに変わる」 (山紫水明さん2003/03/12)
このような平凡な景色は題材として不向きなのでしょうか? 写生歌を作る度に、「ただ目にした風景を説明してるに過ぎない」という思いにいつも駆られます。この場面では降ってきた雨粒が跳ね返って、円弧を描きながらしぶきになって消えてゆくのを何とはなしに「きれいだな」と思ってみていた記憶から作ったものです。
写生歌なら、読んでその情景が目に浮かばなければなりますまい。この歌では後半がイメージ的にちょっと解からないところが惜しいと思います。確かに写生歌は目にした情景を詠うだけのようですが、歌にするにはそれなりの契機があるはずで、つまり感動ですね。この景色を詠おうと思われる、それはその景色に感動されたからに外ならず、写生することでその感動を伝える訳でしょう。また、背景にその時の心理的な状況が重なることも多く、正直に写生することで、しばしばそれも伝わる、ということですね。また、写生歌の形をとりながら、むしろ内面的心理的感情的、つまり思いあるいは心の有り様一般を伝えることもありますしね。対象に深く感情移入するところまで行けば、おのずからそうならざるを得ないでしょう。
この歌では、大変小さな事象が目に止まり、つまりそれに感情が揺れ動いて歌に詠まれた、その心的な契機は何か、この景色そのものと共に、読者は考えさせられるところもありましょう。単に歌材を求めただけだ、と水明さんは言うかもしれませんが。。。歌の心とは本来そういうものだと言いたいのです。
添削:
「仁和寺の石畳打つにはか雨しぶきて小さき円弧を描く」 (山紫水明)