文語短歌の課題
短歌を詠もうと文語旧仮名遣いを使ったりするとついつい万葉集や古今集のような古風な歌になってしまうことがありますが・・・。どうすれば現代的なセンスのある歌になるのかしら?
「侘しさや茜の雲の色も失せ人待ち顔の月もかかれる」 (桐子さん2001年8月1日)
最近、「古今集」でも読まれたのかな。ちょっと古風ですね。
添削・改作
「夕茜雲の色さへ薄れきて差す月光も侘びしきは何故(なぜ)」(桐子)
(初句から第二句にかけて、「ゆふあかねぐものいろさへ・・・」と続けて読みます。)
上のようにでも詠えば、古色は薄まりますね。
「人恋し障子に月の影あわく夢であいたしあの頃の君 」 (桐子さん2001年8月1日)
これもやはり古色が隠せません。
添削・改作
「月光がしんしんと障子に照る夜半あの日の君に逢ひたし 切に」 (桐子)
このように詠めば、古色が薄れますね。
花鳥風月、相聞も、現代風に洗練させないと、短歌としてなかなか成功しません。難しいことですが。
「うたかたの夏かなやうやう脱皮すも狙はれしセミならなほさらに」 (桐子さん2001年8月11日)
「脱皮すも」は、脱皮はしたものの、ということでしょうね。語法的に、また文法的にちょっと苦しいです。ご承知の上でしょうが。全体として女性らしい柔らかい語感に好感が持てます。やはり、おそらく最近読まれたであろう古典の影響を、ちょっと感じます。文語旧仮名遣いを使っても現代的センスで詠めば、古色は払拭されるものです。その場合、文語旧仮名遣いはあくまでも「詩語」として、歌に格調を、つまり「高い歌格」を与えるために使われるものです。また、しばしば簡潔表現が可能のため、限られた語数を有効に使うことにも役立っています。古色とは無縁です。文語旧仮名遣いだから古いという感覚は先入観からくる偏見とさえ言えます。
添削・改作
「脱皮してはや鳥の餌(ゑ)になる蝉や うたかたの夏は悲哀にみちて」(桐子)
「朔の夜に ソラの果てには 望の影 満つれば虧くと 古人の言ふも」 (裕紀さん2001年8月15日)
基本中の基本ながら、5・7・5・7・7という文字数に翻弄され、結局何が言いたいのかわからない歌になってしまいました。
「月の見えない夜の方が、かえって、心のどこかで満月を思ってしまう。『満月になれば月は欠けてくる』と、昔の人は、満月から欠けた月を思ったそうだが」
というのが、この歌で言いたかった事なのですが・・・。
先日、夜遅くに帰宅しようと自転車をこいでいた時、偶然月のない空を見て
浮かんだ想いです。
新月ではなく、たんに曇りだったのですが(笑)。
どうしてどうして、随分考えてありますね。ただ、言われるように、内容がちょっとわかり難いのが残念です。しかし、歌材の新鮮さといい、語彙の豊かさといい、将来性を感じます。定型は初めのうちは抵抗にもなりますが、もともと日本語に最適な韻律ですから、詠い込むことで、やがて抵抗無くすらすらと定型にはまった歌が出来るようになるものです。(「朔」という語は少々古風な感じを与えますね。歌全体に古風な感じがする。こういう古語とも言える語を、現代風に詠みこなすには、相当な修練が必要でしょう。文語旧仮名遣いでも、それを「詩語」として使いこなすことで、またその長所を生かして、十分現代的短歌は詠めます。現代でも、正統派短歌は文語ですから。)
添削・改作
「朔の月満ちてゆく影想へるに欠けゆく月を愛でしいにしへ」(裕紀)
(愛でし=めでし)
ゆく夏を惜しみ さ庭に降り立てば
東の空に ベガスス上り来 (幸乃さん2001年8月31日)
「ゆく夏を惜しみ・・・」は、いかにも古風です。全体的にも感覚的にちょっと古色があります。また、「ペガスス」は「ペガサス」ですね。思い切って改作してみます。
改作
「炎熱の夏過ぎんとしさ庭辺に涼めば地平ゆペガサス昇る」 (幸乃)
古風であることについては 今後どのようにとらえていったらいいでしょうか といっても ほんの少し短歌を詠み始めたばかりで たくさんつくってみること そして おそれずに投稿すること しか ないと思っておりますが
その通りですね。少しづつ難しい注文もして行きますが・・・。今回のお作は、たまたま古風味になったのでしょう。それもまた味かもしれません。