心象詠
下記二首、心象詠のつもりで詠みましたが複数の友人に見ていただいたら写実詠として受け取られました。心象詠として通じるようにするには如何したら良いのかご指導くださいませ。
ひと筋の道果てしなし椰子の葉に裏表なく風吹き渡る(かすみさん2002年11月4日)
幾まがり曲がりて港に辿りつく一湾暮れて海の茫々(かすみさん2002年11月4日)
いやはや、二首とも素晴らしい歌ですね。
一首目。下二句「裏表なく風吹き渡る」なんて、絶妙の表現ですね。そのリアルさが写実詠ととられた因でしょうね。この歌の風景は、おそらくかすみさんの心象風景なのでしょうが。しかし、だからといって、この表現をわざわざ何か別の表現に変えるのはどうしょう。
二首目。この歌はさらにいいですね。これも心象風景なのですね。やはり後半がリアルに感じられ、写実詠ととられたのでしょう。(もっとも、あおぎりには一首目以上に心象性が色濃く感じられます。)ただ、一首目もそうですが、心象風景と言えど、かって全く見たこともない風景を心に浮べることは不可能のはず。かって見た幾つかの風景の合成、および心的状況がミックスされ再構成された風景、ということでしょう。
言われる通り、これらニ首とも、ただ風景を詠んだものではありませんね。心象詠であり境涯詠ともとれます。もっとも、写実詠といえど、しばしば写さんとする風景に心理的風景を重ねるものです。ただ、作者が現に見たか見ている光景が作歌の動機なのかどうかの違いはあります。
短歌(に限らず、大抵の芸術作品)は、完成したとき、作者から自立します。鑑賞者はそれぞれの立場、心的状況に合わせて、それを鑑賞します。ですから、作者はそういうつもりではない、という解釈も当然出て来ます。もし、作者が身近にいて、実はこの作品はこれこれのつもり、と解説できるなら、そうされるもよし、それにより鑑賞者の解釈が変化してもしなくても、それはそれでいいのではありませんか。これらニ首はそうした類の作品と思います。