作者が使う必然性のあるとき

「赤紙を手にして見入りし藻岩山再び見るは嬉しかりとも恥なりやとも」(酔狂さん2002年8月16日
(注)藻岩山(モイワヤマと読む)は、札幌市の西にある標高500m程の山で父の生家に近く、父には幼少、青年時代を通じて馴染み深い山でした。
父の思い出話が基です。短歌に限らず、凡そ文学と称するものに固有名詞を使うことは難しいと思われます。この短歌も、藻岩山ではなく他の普通名詞を使うことは可能かもしれませんが、父の思いを考えると、この固有名詞は譲れません。しかし同時に、当事者ではない息子(=粋狂)には短歌の完成度も気になるところで、判断に迷います。

固有名詞は対象を特化しますから、良く知られたもの以外はなかなかうまく使えないものですね。ただ、言われるように、作者には使う必然性のある固有名詞もあるわけですから、そうした場合は使うべきでしょうね
 この歌はお父さんの思いを代弁されたものですね。
添削
「赤紙を手に見納めし藻岩山再見を恥ぢ且つ喜びし父」(酔狂)