「柔らかき若葉のかげり溢れおる上宮に立てば我が身とけゆく」(がんこきよ)
数年前に写真を始めたころ、新緑の季節にカメラを持って、近郊の山に登り地元の神社の上宮に着いたとき、余りにも新緑が綺麗でその中に吸われていく様に感じました。添削宜しくお願いします。
これは数年前の、新緑の候の想い出なのですね。お作、語順を変えるとすっきりします。
添削:
「上宮に立てば若葉の柔らかきかげり溢れて我が身とけゆく」(がんこきよ)
感動を詠むの最近のブログ記事
初めての投稿でしたが、ご添削ありがとうございました。私は、現在、
短歌とは何かと非常に迷っている状態です。ご教示いただきたいのですが、感動したことを詠み込まずに、事実や、感情だけを詠んだものは、
短歌とは言えないのでしょうか?あおぎり様のもとで、学んでいきたいと思っています。これからも、ご指導よろしくお願い致します。
散文ならいざしらず、「事実や、感情だけ」でも、何らかの感動がなければ短歌に詠もうとは思わないのでは?
たとえば、写生歌など、対象がありありと読者に現前するように詠んでも、それは作者の感動が読者に伝わっている証拠ですね。また、
作者のその時の心理が風景などに投影されて短歌となっている場合もままあります。もちろん、短歌は写生に限られません。
詠むことがらとしては、無数の可能性があります。短歌は、作者の(いろいろな意味の)感動を詠むものですが、それが読者に伝わってはじめて、
短歌を詠み得た、といえますね。作者だけが感動していているのではなく(それでは独り言とかわりません)。感動を短歌に詠むとは、
作者の感動を伝える、という意味ですね。感動が伝わるように詠む、ということです。お励み下さい。
「組合の芝焼き作業来ぬ人は罰金取ると衆議で決める」(実華)
今日は水利組合(農家組織)の害虫防除のための芝焼き作業の日。最近地域の協働作業に来ない人もおり不本意ながら欠席者から罰金を取ることに決まりました。農村集落も崩壊傾向で寂しいことです。
助け合い・互助の精神が廃れては「農村集落も崩壊傾向」と感じられても仕方がないですね。協力しない人には罰金を科すことも辞さない、とのお歌ですが、このままでは事実報告で、散文で書かれても大差ありません。。。「農村集落も崩壊傾向で寂しいことです」と言われる、このあたりの方が短歌になるでしょう。
添削(改作例)(新仮名):
「組合の芝焼き作業に来ないなら罰金科すと決めるは易く」(実華)
「折々の喜怒哀楽を凝縮し三十一文字で思いを詠う」(ポエム)
日記代わりに短歌を詠うようになり、細々続けて来て、言葉を選び、リズム良く、簡単明瞭で素直な気持ちを、と思えば思うほど難しいと思う反面、その楽しさがわかりかけて来たように感じます。
歌を詠む楽しさが分かりかけてきたと言われる。日記代わりに詠むという意識から、作歌は日記代わりにもなる(日記代わりになるのは副次的な効用)、という意識になられた?お作は説明的になっていますね。
添削(改作;口語新仮名):
「折々の喜怒哀楽を凝縮し記せば三十一文字(みそひともじ)になっちゃう」(ポエム)
「丸ごとに柿をかじれば半渋でシブシブ顔して種だけ捨てる」(伊那佳)No.2
最初は:「丸ごとに柿をかじれば半渋でもったいないのでシブシブ食べる」No.1
*本当はNo1が実感でしたが<もったいないので>がセコい感じもするのでNo.2に変えました。
甘柿を植えたはずですが、半渋柿になってしまいます。高冷地向きでなかったのか?品種改良ミスなのか解りません。生で食べれば甘渋いです。干し柿用には糖分が多いので色黒になりカビが生えやすいので苦労します。秋には美しく、小鳥が喜んでくれます
甘柿のつもりだったのが甘渋柿が生ったのですね。干し柿にしてもせいぜい小鳥の餌。もったいないから、渋みを我慢してとにかく(種以外は)全部食べたと。食べてみれば結構イケて、文字通り三船敏郎や高倉健のような渋みのある柿だった・・・ならいいのですが。お作、「丸ごとに」の「に」は変ですね。柿を丸ごと食べるというのは、一口で全部を口に入れる、という意味ではなく、皮も剥かず、幾つかに切ることもせず、丸い形のまま食べる、ということですね。一口齧れば自分の歯型がくっきりとつきますね。「シブシブ顔」は、解からないでもない造語ですが、歌語としてのきれいさに欠けますね。「お金をシブシブ出す」といった言葉もありますしね。さらに、NO.1にしろNo.2にしろ、詩に成りきらず、単に事実報告になっていませんか?ご趣旨を生かしつつ、少しは短歌らしくしますと・・・
改作例(口語新仮名):
「大口あけ柿を齧れば甘渋で顔ゆがめつつ食べおおせたわ」
「樺日と呼ぶ新聞の一ページ宗谷の門波ウエブにて見る」(暮秋)
もはや日本の領土ではなくなり、油田のことなどで国際問題になってもいるサハリンですが、なぜか地名などに興味があります。山口誓子(新比古=本名)が樺太日日新聞の叔父のところにいたのはわりと知られています。有名な俳句「流氷や宗谷の門波荒れやまず」から本歌取りならぬ俳句取りをちょっとやってみました。歌になるでしょうか。
サハリン問題というのは、今はガス田開発関連ですね。日本の大手企業などが2兆円もの巨費を投じているこの共同開発事業、クレムリンの一声で頓挫しかかっていますね。あちらにもそれなりの事情があるようですが、実に不誠実きわまりありません。アメリカまでが口を出し始めて、正に波高し、の情勢です。暮秋さんの場合、豊富な知識はいいのですが、知識のつまみ食いならぬ、つまみ取り、千鳥縫いで、歌意が透明ではありません。短歌は字数制限が厳しいですから、何を詠まれたいのか(読者にどんな感動を伝えたいのか)を整理され、定型化されてはいかがでしょうか?公表するからには、もっと読者を意識して作歌して欲しいと思います。複雑で直ぐには解からないように詠まれたものが深くて高尚な短歌だというのは間違いだと思います。本歌ならぬ本句と言われる誓子の俳句は、壮大なイメージが明瞭であり、句意も透明ですね。
「目をつむり座ればすぐに眠くなり息ふきかえす如くに醒める」(アン)
年のせいだと少し寂しくなりますが少しまどろんだあとは元気が甦っているのです。
「少しまどろんだあとは元気が甦っている」というのはアンさんに限りません。年は関係ないです。「目をつむり座れば」は順序が逆ですね?字数の関係で逆にされたようですが、やはり不自然です。椅子ですか?それとも畳の上ですか?
椅子に座る時にすぐ目をつむるくせがついてしまいました。作り変えました。
「腰掛けて眼(まなこ)つむればまどろみて醒めたるときに戻る活力」
詠み直されて状況はよく分かるようになりましたが、これでは歌ではないのでは?と言いたくなるほどつまらなくなりました。なぜでしょうか。
改作例:
「腰おろす即ちまどろむ癖がつく元気回復に即効あれば」(アン)
順序良く動作を追ってたんなる報告になってしまったせいでしょうか。(>_<)
「順序良く動作を追」うと報告歌になる、と。そういうことではないと思いますよ?伝えたいことを伝えることだけに囚われると、詩情などがなくなり、散文的、報告的になるのではないでしょうか?
有難う御座いました。最近の私の歌に落ち込んでいましたがいつもその事だけにとらわれ詩情を忘れていたのですね。いつも夢子さんの歌の素直な直感に感動していましたが自分の歌となるとどのように勉強していけばよいのかため息が出そうです。
新聞やニュースの土砂災害の報道に、科学がどんなに発達しても、自然に対して人類はなんと無力!・・・時事問題を詠むのは得意ではありませんが。
お作「二十一世紀なお人類は無力」で終わってしまっては、ご尤も、でおしまいです。新聞記事の見出しのようでもあり、こういうことをポエムさんがわざわざ詠われなくても、誰もが思っていることですね?それを歌にしようとしても歌にはならないのです。次の改作のようであれば歌になりましょう・・・。
改作例:
「またしても集中豪雨の土砂災害ああ阿鼻叫喚を繰り返すなり」(ポエム)
このお作もこのままでは余り短歌らしくありません。報告、という感じなのです。散文に近いです。例えば「可愛い姿」の中身が入るといいのですが。例えば・・・
添削:
「ベランダに一羽の雀舞い降りて何かせわしく啄ばみ飛びさる」(小百合)
