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お客様の歌

「ものぐさ」を訪ねてくださったお客様の作品と
梧桐 学の提案または返歌を記録しました。
2001年7月

7月14日
粋狂さん

飢餓ゆえに言葉失う人ありて言葉に飢えし我は痴れ者

酷評を望む


あおぎり
いやいや、酷評などと。酔狂さんの作品は迫力があり、力があります。今回の作品はそれに応えるだけの歌材・内容ですね。これにさらに言葉つまり詩語としての美質を求めるのは酷というものかも。それが酔狂さんの個性ならば、なおさらです。これはこれでいいと思います。
もちろん、あおぎりなりの添削・改作は出来ます。

添削・改作(梧桐):
「飢餓ゆゑに言葉失ふありといふ言葉に飢うる吾は痴れ者か」

これで語の流れもよくなり、緩むところなく、語韻も悪くない、余韻もそこそこの、一級品の文語正統派短歌が出来ました。結句、原案のように言い切るのではなく、上のようにすれば余韻が深くなるわけです。語韻とか余韻は短歌の生命を担う重要な因子です。日本語の美しさの一側面です。
 勿論、酔狂さんが捉えた歌材が良かったから、このような含蓄ある秀歌が出来たのです。ほとんど酔狂さんのお手柄です。

(注:「言葉失ふありといふ」=言葉を失う者があるという、の意味。
「失ふ」は連体形で、それを受ける連体語(「者」)を省略した形。「飢うる」は「飢う」の連体形。「飢う」は下二段活用の動詞。飢ゑ、飢ゑ、飢う、飢うる、飢うれ、飢ゑよ、と活用(変化)する。)


7月13日
nanamiさん  
自分の記録代わりに歌を詠み始めました。友達に見せる程度でしたが、
少し勉強したいな、と思い投歌させていただきました。
ご教授いただければ幸いです。

一番新しいものです。

 梅雨月夜ピアスを片方落としたの見つかるはずなのもう少しいて

あおぎり
nanamiさん,大歓迎です。そう、短歌は日記の代わりにもなります。しかし、それを続けていると物足りなくなってくる。もっと本格的に短歌を創りたいと思うようになります。そのルートをあなたも通ったわけだ。
さて、投稿歌ですが・・・

ピアスとあるから、若い女性ですね。添削には最小限の情報が必要でしてね、若いかご年配かくらいは知らないと。(最近は青年男子もよくピアスをしていますね。しかし、歌の感じからは明らかに女性。)
この歌、ピアスをうっかり落としたので、デートの相手を待たせて、月明かりを頼りに探している、という情景ですね。
初句「梅雨月夜」、苦労して探しあてた言葉かも。これまでにない表現、新しい表現です。今年は空梅雨で、月夜も珍しくなかったわけですが、短歌の常識的語法からは、やはりちょっと無理かな、という感じがします。雨の文字が入った「梅雨」という季節用語は、やはり雨天をどうしても連想させてしまうのです。
また、全体的にも語の運びがちょっと滑らかさに乏しいかな。例えば「片方」とわざわざ言わなくてもいいのでは?同時に両方を落とす確率は低いから。このように筋立てて考えて行き、無駄な言葉をなるべく省いて.真に言いたいことに焦点が当たるように組み立てるのです。
こういうと、大変そうですが、いやなに、数多く歌い込んで作歌に慣れてくると、自然にそのようになってゆくものです。
今回が最初だから、これ以上あまり難しいことは言いません。

ちょっと起伏を付けるようにしてみましょう。

添削・改作(梧桐):

「雨季だから潤んだような月明かり 落としたピアスあなたも探して」


口語短歌としてはいい出来になりました。

nanamiさん
つたない歌に丁寧なご指導ありがとうございます。
「片方」は、ちょっと引っかかっていたので自分のいい加減さを指摘されたようで言葉の大切さをあらためて感じました。
「梅雨月夜」は、稀なことの例えだと歳時記に書いてあったのです。
だから「もう少しいて」は月へ語りかけたふりをして、
実はもっと一緒にいたかった相手への気持ちを詠みたかったのです。
全然伝わらなかったことを反省し、まだまだ勉強するぞ〜と元気が出ました。
もう少しご面倒をおかけしてもよろしいでしょうか。

こんな雨やまなくたっていいじゃない海いっぱいに降るのを見ようよ nanami  


7月14日
あおぎり
なるほど。「梅雨月夜」という成句に、なかなか会えないという思いも込めたわけですね。枕詞的に使っている。(短歌ではほとんど見られない語句ですが。)それなら、

改作−2(梧桐):

「梅雨月夜会えば別れがつらくなり落としたピアスゆっくりさがす」

これなら詠みたいことが詠めていますね。
ただ、現代的口語短歌としては、やはり初句が古風にひびきます。枕詞的用法であることが一層その感を強めています。しかし、歳時記まで調べて語句選びをされた熱心さがうれしい。それなら、文語正統派短歌に挑戦されてはいかが?文語ならもっと情感が盛り込めるでしょう。

「こんな雨やまなくたっていいじゃない海いっぱいに降るのを見ようよ」( nanami)

口語でせいいっぱい抒情を盛り込もうとしていますね。相手のことを直接には言わないで、デートの甘い雰囲気をよく出しています。後半がうまいですね。
初句「こんな雨」は、どしゃぶりではない、春雨みたいにしょぼしょぼ降る霧のような雨ということかな。それとも、とにかく雨なんて気にしない、あなたと一緒だから、ということかな。はっきりしない・・。そこがちょっと気になるところ。後の方として、とにかくやってみましょう。
添削:

「雨なんて止まなくったっていいじゃない。海いっぱいに降るのを見ようよ」  


7月13日
桐子さん
仕草も愛らし・・・

於:水族館
拍手受けご褒美もらうセイウチの甘えし顔もまた花を添え

7月14日
あおぎり
ご褒美を貰うのなら、甘えるよりも喜ぶのでは?このご褒美は餌の魚かなんかですね。また、このセイウチは美人か美少女セイウチですかね。結句の「花を添え」からそうなりますね。いえ、そんなことは分からない、雄かもしれない、ですって?おやおや。−−と、このように、一旦歌にしたものを、自分で批判的に見直すといいと思います。それにより改良するのです。

改作(梧桐):
「曲芸を終えたセイウチ拍手受けご褒美もらうもかわいい仕草」

7月13日
山口須美さん 

 報われぬ道と知りつつ歩みゆくや老女の姿吾に重なる


あおぎり
この歌,状況が分かりませんね。つまり,老女が歩いている目的がはっきりしません。ですから,何がどう報われないのか不明ですね。したがって,最後の心情表白も生きてこないのです.歌に盛り込むべき最低限のものがあるわけです。その点に注意して,もう一度詠み直してください。


山口須美さん
未熟すぎて恥ずかしいけど、再度お願いします。先生の添削でとても大事なことを教えていただけてハッとすることばかりです。有難うございます。

黙々と只ひたすら歩みゆく老女の姿にふと吾重ぬ 

50歳の半ばになり、日々老うることの怖さと老後の生活の不安がいつも私を追いかけます。老いた人が歩いているところを通りすがりに見たときふと感じたことです。よろしくお願いします。


7月14日
あおぎり
この老女の姿にその過去生のすべてが詰まった深い人生的な疲れを見られたのだと思います。人の(つまり自分の)行き着く先がこの老女の姿に見えてしまった、そういうことですね。

改作(梧桐):
「濃き翳を背負ひ黙々と歩み行く老女の後姿(ウシロ)やがてわれかも」

(後姿=うしろ。短歌ではよくこのように読ませます。)




7月12日
栗太郎さん
詰めてくる税吏

 詰めてくる税吏の質問に見透かれしガラスの中の小さなる企業

先日税務所から抜き取り調査があり我々のような小さな零細企業では何もかも見透かされてしまいます冠婚葬祭の為めの蓄えの金まで引きずり出され怒るより馬鹿馬鹿しくなりました

あおぎり
この不況下,特に中小企業・零細企業は大変のようですね。それなのに税務署は情け容赦なく経理の細部にまで突っ込んでくる,冠婚葬祭の為の蓄えまでも・・.という嘆きが聞こえます。

添削・改作(梧桐):

「税吏の目するどく冠婚葬祭の預金さえ突く ああ小企業!」


7月12日
山口須美さん  

かたときも携帯離さぬ若人に孤独の魅力を教えたくなり                                            
あおぎり
須美さん、いらっしゃい。大歓迎です。誰でも習い初めは初心者です。ここはそうした人たちのための短歌添削BBSです。これからも気軽に寄ってください。
「孤独の魅力」というのはちょっときついかな。「良さ」くらいでいいですね。教えたいという衝動は分かりますが、ヘタに口を出そうものなら、いらぬお節介、わたしの勝手でしょ、と反発されそうです。若人と言えど自分の領域にずかずかと入ってこられるのは大変嫌うものですから。
詠み方としては、あまり平坦にならないようにしたいですね。印象が薄くなりますから。そして、特に口語短歌の課題として、詩情と余韻をどう歌に乗せるか。みな悩むところですね。詠い込み習熟する以外ないでしょうね。

添削・改作(梧桐):
「若者はいつも携帯電話(ケイタイ)持ち歩く孤独の良さを拒否するように」

これで短歌らしくなりました。歌材がよかったということでもあります。あとはそれをうまく短歌にまとめられるよう修練されることですね。まあ、慣れるということですが。

なお,上の改作では,携帯電話=けいたい、と読ませます。短歌ではよくやる、常用語のルビによる字余り回避です。つまり携帯電話という漢字のルビとして「けいたい」と付けるのです。これは携帯電話のことを「けいたい」と略して言う、いまどきの風潮を利用するものです。携帯と書いただけでは理解されるか不安ですからね。携帯ラジオ、携帯テレビ、携帯パソコンなどなど、馴染みのある携帯なになにという物はいくらでもありますから。



7月12日
桐子さんお母様
若き日を偲びて

年を経ていかになりけむ若き日に君と歩みしコスモスの道・・・桐子母

七月の入道雲を詠みし人今我一人それをながむる・・・桐子母


あおぎり
相変わらず素直な詠みぶりですね.このままでもいいですね.もう少し抑揚があれば,なお良くなるでしょう.

添削(梧桐):
「若き日に君と歩みしコスモスの道がしきりに脳裏に浮かぶ」

改作(梧桐):
「夏の雲詠みしかの人いまいづこ 眺めて佇てば過去のはかなさ」
        (佇てば=たてば。立てば、より茫然としている様が強い)

いい歌になりました.



7月10日
桐子さん
マンションの朝

口語短歌に挑戦してみました。

マンションに雨戸がないから眩しくて年に一度の早起きしたわ

7月11日
あおぎり
「マンションに雨戸がないから眩しくて・・・」という言い方、わざわざ眩しい理由を、つまし理屈を述べていますね。こういう理屈っぽい語の斡旋は避けたいものです。短歌は理屈を述べるものではないからです。
また、雨戸がないのは常時ですから、雨戸がないという理由で、どうして年に一度の早起きをしたのか、と読者は不思議に思うでしょう。すなわち、詠みたいことが十分整理されていないということです。
口語短歌はどうしても軽くススーと流れてしまうので、印象・余韻も軽くなり勝ちで、どう起伏を付けるかが苦労するところです。勿論、その前に歌材の選択という、もっと大事なことがありますが。
とにかく、与えられた素材でやってみましょう。

改作(梧桐):
「朝焼けの光が窓にきらきらしていつもより早く起きて拝んだ」

今は雨戸がない家が多いですね。その代わりブラインドがある。ブラインドを降ろし忘れたのですかね。それなら・・・

改作-2:
「ブラインド降ろし忘れた明くる朝窓の光でもう目が覚めた」

まあまあの出来になりましたね。


7月12日
桐子さん
雨戸については、私の家にも周りの家にも雨戸があり普段は気にも留めていなかったのですが、たまたまマンションに泊まったときに雨戸のないことが特別の事のように思われて、事実、目覚めも早かったものですから・・・。


あおぎり
ははははは.まいった,参りました.うちのゆう子さんも最初はあおぎりと同じように,「変だ」と言っていましたが,やがて,「たまたま友達かなんかのマンションに泊まったんじゃないかなー」と言い出しましてね.ははは,ズバリでしたね.ゆう子さん,なかなか鋭いなー.見直したよ.
それにしても,誤解されるということは語法に飛躍があるからですね.
例えば,字余りになるけれど,初句が「マンションには・・・」となっていたら,そうした解釈も出来たと思います.たった「に」の一字でそんなにも違ってくるのです.あるいは、ゆう子さん提案で、「このマンション・・」とすれば、初めて泊まったというニュアンスが出ますね。
「は」は限定する助詞ですから,「マンションは」とすると,「わたしが住んでいるマンションは」とか,「マンションというものは・・」のニュアンスになる.だから,作者が住み慣れたマンションというニュアンスが出てくる.それに対して,「マンションには」と「に」を入れることで,そうしたニュアンスが随分弱められるわけです.このマンションに関する考えに幅が出来る.「自分の家と違って,マンションには・・・」ともなるわけです.

とにかく,言われたことを前提に,改作-3です・・・

添削・改作(ゆう子さん;梧桐):
「このマンション雨戸がなくて眩しくてほんと久しぶり早起きしたわ」

改作-3:
「家離れ泊まったマンション雨戸なく窓眩しくて早起きしたわ」

改作-4
「マンションに雨戸がないのは近代的という名のオシャレ? 家が恋しい」

改作-5
「あら不思議、雨戸に慣れたわたしには雨戸持たないマンション不思議」

まあ,いろいろヴァリエーション可能ですが,いまいち詩情に乏しいようで・・・(文語ならもっと詩情が出せるでしょうが。)


7月10日
粋狂さん

園児らは合羽長靴水溜まり梅雨空だって遊び道具だ

短歌における日本語の美しさとは粋狂には分かりません(断言!)・・・・(^^;)
でも、そのうち分かるにちがいないと楽観しています。そう思っても誰にも迷惑はかからないので(笑)


あおぎり
はははははは・・・酔狂な!
このホームページの「短歌教室」をお読み下さい。きっといろいろ作歌上のヒントがあります。素人のゆう子さんの作る短歌をあおぎりが添削・改作していますが、併せてそれについてたくさんコメントも述べていますので。
 さて、今回の作品ですが・・・面白いですね。勿論口語定型短歌。着眼は決して新しくはないかもしれないけれど、一所懸命5-7-5-7-7という定型に収めようと努力しておられます。児童たちに対する暖かい目が感じられます。ただ、初句と結句の結びがずれていますね。初句が「園児らにとっては」とあればいいですが、これでは勿論大幅な字余りで、短歌にならない・・。そこで、工夫するわけです。例えば・・・

添削(梧桐):
「園児には合羽長靴水溜まり梅雨の雨さえ遊ぶ道具か」

まあ、言語の洗練さはありませんがね、楽しくはある。危ういところで、狂歌になるところを踏みとどまっている、といった感じですね。
 こうした作品をべースにして、とにかく歌い込むことで、日本語の美質が出るように精進されますことを祈っています。きっと出来ますよ。

7月9日
桐子さんお母様
夏の夜

風鈴の音と夜風の流れ込む月の光もほの白く見ゆ・・・桐子母


あおぎり
誠に静かな心境ですね。ただ、起承転結のない、事象の平坦な羅列になっています。もう少し起伏をつけましょう。風鈴は「音;おと」より「音;ね」がいいですね。

改作(梧桐):
「風差せば風鈴しづかな音にふるへ月光いよいよ晧さまさり来」
         (音=ね)     (晧さ=しろさ)



7月9日
かすみさん
行きずりの縁

擦れ違ったままで別れた人々を回想しながら作りました。

   
行きずりの縁幾つや霧立てる海抜二千の山に花摘む
       (エニシ)



あおぎり

前半と後半の繋ぎがいま一つですね。ちょっと内容を盛り込み過ぎか。

添削・改作(梧桐):
「会釈して去る人ら捲き霧うごく標高二千に小花摘みつつ」


7月7日
粋狂さん

川辺利に釣糸垂れて居眠りの父の魚篭には陽が射すばかり

描写に留まっているのはわかるのですが
さてこれからどうすればいいのか・・


あおぎり
描写、つまり写生ですね。写生するにはそれなりの動機があるわけですから、つまりその情景になんらかの理由で感動し、短歌の形にしてそれを読者に伝えたいという動機があるわけですから、動機の質と、短歌に詠みこむ時の工夫で、単に写生と見える短歌にも読者は十分感動を覚えるものです。それがかってのアララギの人たちが主張した「写生歌」ですね。物を生き生きと写して、もってその背景にある情感なり感動を伝える、という極意です。

改作(梧桐):
「釣糸を垂らして居眠りする父の耳洗ひつつ清流ひびく」

あるいは、
「居眠りする父の釣糸風に揺れ小道具むなしく春の陽を吸ふ」


7月5日
粋狂さん

蝉時雨我が読経を消し去りぬ否や我が声既に尽きたり

蝉時雨の季節にはまだ少し早いのですが・・・・



7月6日
あおぎり
夏ともなれば、蝉しぐれがさかんな所にお住まいなのですね。あおぎりの住まいは小都市の住宅街で、蝉もちらほらある樹木から聞こえてくる程度で、うるさいなどとはほど遠く、ちょっと残念なくらいです。ただし、街灯付近の樹木で、真夜中によく鳴きます。これは結構響きます。しかし、蝉も昼夜分かたず、では大変だろうと、可哀想になります。また、おそらく蟷螂なんかに襲われるのでしょうね、突然鳴き声が途絶えたりします。一瞬「ジー」という断末魔とおぼしき高い鳴き声を発してのち、静かになるのです。これもあわれを誘います。
さて、今回のご作品ですが、下二句は力強い反語による感懐表現ですね。ちょっと語の勢いに流されてしまっている感じはしますが。読経の声がかき消されるほどの蝉しぐれ・・・、一心不乱に鳴く群蝉の姿が想像されます。蝉は音(おん)が「せん、ぜん」なので、禅に通じますし、ね。それに読経の力が負ける、と。

あおぎりなりの改作を・・・(宗教的あるいは人生観的雰囲気には、もう少し穏やかな表現がいいと思います。)

改作(梧桐):
「わが読経かき消しすほどの蝉時雨にまことの般若心経を聞く

7月7日
粋狂さん

Iは音(おん)が「せん、ぜん」なので、禅に通じますし、ね。それに読経の力が負ける、と。

そこまで考えたわけではないのですが・・
強調と穏やかさは粋狂の歌力では両立し難く、宿題にします

般若心経は念頭になかったのですが、というより
どの経文でもよかったのですが、この経文にきめつけても
歌意は損なわれていません。勉強になりました


7月4日
栗太郎さん
総理総理・・・・・
先月の国会中継の中で社民党の辻元議員が総理に質問中に何回も「総理総理」を連呼される様子を見ていて一駒漫画にしたらこうなるだろうと思つて詠んだ作品です初めてですが宜しくお願いします 
      
 < 唇が音符に乘つて飛んで行く一駒漫画が「総理」連呼する>

追伸 始めまして72歳の爺です まだまだ初心ものです今後とも宜しくお願いします

7月5日
あおぎり
72歳の方。いらっしゃい。短歌は小学生から100歳翁にまで親しまれています。内容は歳相応ということもあろうかと思いますが、短歌自体は年齢不問の国民文芸です。大いに歓迎致します。

面白い情景を捉えられましたね。国会での審議の模様を詠んだ短歌はたぶん他にないでしょう。短歌になりにくい情景ですからね。とにかく・・・

添削・改作(梧桐):
「唇を飛び出す“総理”の文字の列 一コマ漫画よ国会質疑は」

または、
「一コマの漫画さ 口から“総理”の文字続々飛ばす野党質問」

7月4日
かすみさん
亡き母

   夕茜染まる厨に菜を刻む音かろやかに母蘇る

あおぎり
やはりいい歌ですね。ただ、「夕茜染まる厨」は変です。夕茜に染まる厨、なのであって、この歌では夕茜が厨で染まる、と読めてしまうから。また、歌意は、おそらく「厨が夕茜に染まる情景を見ると、かって母がかろやかに包丁で菜を刻んでいた姿−この厨に定着し染み着いていた姿−が再び想い出され、あたかも母が今も生きているかのように甦る」ということでしょうから、語の運び、起承転結にちょっと整合性が欠ける面がありますね。読者は理解してくれる、という‘みなし’による語の飛躍があるわけです。いい歌だけに惜しいです。

添削・改作(梧桐):

「夕陽に染まる厨辺しんとして亡母かろやかに菜を刻む音」
(夕陽=せきやう;亡母=はは)

こう詠めば、亡きお母さんがあたかも厨に立って菜を刻んでおられるようです。幻像ですが、かすみさん自身には実像のごとくお母さんが見えている。(だから、亡母を「はは」と読ませることが生きます。)それはあまりに見慣れた情景だから。心にしっかりと染み着いた情景だから。しかし、所詮幻像。やがて心焼かれるような深い哀愁に襲われ、かけ替えのない大切な人、つまり母の喪失感に苛まれる・・・。

またまたいい歌ができましたね。



7月3日
桐子さんお母様
平穏

これこそがまこと幸せ事もなく変わらぬ日々の迎えられるは・・・桐子母

昨日けふめだかの数の気になりぬ七とかぞえて八と続かず ・・・桐子母


7月4日
あおぎり
これら2首ですが、いずれもこのように詠われますと、手の加えようがない、といった感じです。加えては却ってまずくなると思われます。あとは、歌材あるいは内容がどの程度読者の心を打つか、ということだけですね。歌の姿としては申し分ありませんから。
 ただ、強いて言えば、これは文語体の短歌ですから、仮名遣いもそれに合わせてほしいな、ということだけです。第一首目では、
 「変わらぬ日々の迎えられるは」→ 「変らぬ日々の迎へられるは」
また、第二首目では、
 「かぞえて」→ 「かぞへて」
ですね。最近は、文語体に現代(新)仮名遣いをミックスして使うことが結構行われていることも事実です。しかし、わたしはそれが気になってしようがありません。いわば新旧の言葉の重箱用法ですからね。もちろん、ある種の効果(語感、音感など)を狙って、意識的にそうすることもあり、その手法は一つの技法となっていますが。一般的には重箱用法はそれを意識せず、ただ旧仮名遣いに慣れないため、という場合が多いので、気になるわけです。



7月3日
粋狂さん

ションベンの匂う酒場の裏側を最終電車定刻に過ぐ

まことに歌はおもしろいいくらでも詠めそうな気がします(質ハ不問トスル・・・・^^;)


あおぎり
ションベンって、小便のことですかぁー。まいったなー。いよいよ酔狂さんの本領発揮ですかねー。内緒ですが、実は家の近くで夜に屋台が出るんですよ。もちろん飲み屋。立派なビルの前に・・・。だから朝になると、あわれにも、そのビルの玄関先にまだ乾ききっていない縞模様がよく出来ているのです。これにはまいりますよ、ほんと。
この歌、初句があからさま過ぎますね。痩せても日本伝統の短歌ですからね。我慢するところは我慢して頂きたいのです。野性味もほどほどです。

改作(梧桐):
「終電車去るを見送る呑んべぇらのいばりの跡がにほふ路地より」

ははは。なかなか短歌にまで高めることは難しい題材ですね。まいった。


7月2日
桐子さんお母様
時の流れに

夜が来たまた朝になり夜がくるただそれだけの繰り返しかな・・・桐子母

ある筈とあちこち探せど見当たらず忘れし頃にふと見つけるは・・桐子母

           
あおぎり
おやおや、たちまち口語短歌ですね。この順応性、大したものですね。最後の「かな」は文語ですが・・・。この歌、昼がないみたい。

添削・改作(梧桐):
「夜が明けて朝となりもう昼となり夜がまた来る楽しからずや」

このように、繰り返しにも多少の抑揚を付けると、飽きませんね。

これは短歌というより、狂歌ですね。ユーモアがポイントになっているから。狂歌でやって見ましょう。

添削・改作:狂歌(梧桐):
「あれはどこ?たしかこの辺に置いたはず。忘れたころにまた見つかるさ」



7月2日
粋狂さん

痩牛と風筋追うて丘に行く此岸の果てを知らず過ぎたか

あおぎり
ちょっと難しい内容ですね。下二句がやや抽象的で、意味が掴みにくいところです。丘の牧場にて牛と遊び風と遊んでいると、茫漠として大地に果てがあることも忘れ、また此岸の果て(死というもの)も無きがごとし、という意味でしょうかね。「痩牛」といい、「風筋を追う」という表現は初心者のものではありません。ともかく、あおぎりの思うままに、添削ないし改作してみましょう。

添削・改作(梧桐):
「痩牛と風にしたがひ遊ぶ丘漠く此岸の果は茫々」
         (漠く=ひろく)



7月1日
桐子さんお母様

私は思い浮かぶことをそのまま歌にしています。但し、流れを良くすることには多少留意しております。それだけの事なので技巧とかその他については稚拙だと思いますが今後とも宜しくお願い致します。(桐子さん)

お昼寝や寝起きの様を恥じらいて居留守つかえり陰でわびるも・・・桐子母
                         
あおぎり
何事も、技巧を感じさせるような技巧はまだまだと言いますね。難しいことですが・・・。素直に詠むということは、とても大切な技巧かもしれません。技巧の跡が見えませんから。
内容から口語がいいですね。

添削(梧桐):
「居留守してごめんねだけどお昼寝の乱れた姿見せられないわ」

口語でも、このようにすれば、結構余韻がありますね。口語には口語の良さがありますから、それを活かすわけです。
なお、「恥じらいて」「つかえり」は本来文語ですから、旧かな遣いで「恥らひて」「つかへり」とするのが本筋です。ただし、歌われたい内容は口語的ですから、いっそのこと口語短歌(定型)とする方がいいと思います。ご検討下さい。

                         


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